About

水木ユキ こんな人

京都で生まれ育つも、子供の頃はあまり京都が好きではありませんでした。

キラキラしたカラフルなものが好きだったので、歴史的な街並みは
「なんか茶色の多い世界だなー」と思っていました。
親:「二条城に行くよ」
私:「何それ」
親:「お城」
私:「!!!」頭の中でディズニーのお城が思い浮かびテンションが上がる
(ドレスは着なくてもいいのかな…)
↓↓↓
全然違うお城にがっかり
みたいなことがよくありました。

絵を描くのが好きで、カラフルなクレヨンや絵の具でチラシの裏に絵を描いたり、粘土をこねくりまわしているほうが、外で友達と遊ぶより楽しいタイプの子供でした。


留学

とにかくあまり好きではなかった京都から出る機会を伺いながら育ち、高校生の時にそのチャンスはやってきました。通っていた高校から、交換留学制度を利用して半年間カナダの高校へ行けることになったのです。

私が行ったカナダの高校は、今で言う多様性の巣窟。いろんな人種の子がいて、いろんな髪の色やピアスやタトゥーや奇抜な洋服の生徒が廊下を歩いていて、とにかく「人の見た目ってこんなに違うんだ」と衝撃を受けました。また、本当に普通の公立高校だったので、いろんな境遇の子がいます。お金持ちの子、そうでない子、子供のいる子、事情があって年が少し上の子…アフリカの戦争から逃げてきてる子だっています。いかに自分が狭い世界で生きていたのかを思い知らされました。で、日々受ける衝撃を私は大好きだった美術の時間に爆発させていたのですが、その高校で美術の授業を担当して下さった先生が、「あなたは美大に行ったほうがいい」とアドバイスをくれ、日本に帰って二浪して京都市立芸術大学に入りました。(サラッと言ってますが、二浪は本当にしんどかった。)


京芸時代

私が学生だった頃、京都市立芸術大学は沓掛という京都市内でも山に近いエリアにありました。山の中のキャンパスで、いろいろな授業を受ける中、私は立体を作ることに興味を持ち、プロダクトデザインを専攻することにしました。デザイン科では学生にとにかく次から次へと課題が与えられます。学校が山の中だったこともあり、あまり遊ぶ環境でもなかったので、家具や家電、自動車などのデザインを必死でこなしながらほとんど遊ばずに学生時代を終えました。(今思ったらもう少し遊んでおけばよかった) 学校の近くは柿が有名な場所で、秋になると柿が楽しみ…というかそれ以外の楽しみがあんまりない笑、とにかく制作に明け暮れる学生生活を送りました。デザイン科の課題は、きつめの〆切が設定されていることが多く、その〆切までに作品のコンセプト立案からモックアップの制作、プレゼンテーションの準備などに追われることになります。そして〆切に間に合わないとすごく怒られる…というか、間に合わないという選択肢がそもそもあり得ない空気なので、何とかプレゼンテーションはするけど結果は散々…。大学を卒業する時は、本当に達成感があり、「学生生活が終わって寂しい」ではなく、「やっと終わった…」と泣きました。今ではそれだけ鍛えて下さった先生方や環境にすごく感謝しています。※ただし必要以上に無理をしすぎるクセが、後々人生を狂わすことに…


卒業後は、カーデザインの世界へ飛び込む

私が卒業した時代、世の中は就職氷河期。でも私は運良く自動車メーカーのデザイン部に就職することができました。留学をしていたため英語ができ、TOEICの点数がまぁまぁあったのがよかったのだと思います。自動車デザインの世界はとても厳しく、難しいことばかりで、本当に大変でした。入社した同期70人中女性は4人くらいで、男性ばかり。今の時代では考えられないようなパワハラめいた言葉を聞きながらも、「会社で働くってこんなもんなんだ」と思っていました。それでも、一自分がデザインに関わった車が世の中に出て街を走っているのを見ると、全ての苦労が報われた気持ちになり、とても誇らしかったのを覚えています。そして、私が何よりうれしかったことは、京都を出られた!ということ。大学で身につけたデザインと言う武器を手に、働いて手にしたお給料で、京都を出て自力で生活していけるようになったことが、本当に嬉しかったのです。


海外勤務

その当時働いていた自動車メーカーの関連会社のデザインスタジオがアメリカ・カリフォルニア州にあり、日本の会社から社員が交代で行って働くという制度がありました。私は女性社員だったので私にその役が回ってくるとは思っていなかったのですが、当初行く予定だった男性が行けなくなったとかで私が行くことに。そこで18か月間働くことになりました。英語は留学をしていたので話せましたが、海外で働くのははじめてです。留学時代は学生という立場でカルチャーショックを受けましたが、今度は仕事の中で日本とアメリカの差に驚くことになりました。日本の会社では、同じ車をデザインするデザイナーたちは、どちらかというとチームで団結して仲良く!という感覚でしたが、アメリカでは個々にすごい才能を持ったそれぞれのデザイナーが、ライバル同士切磋琢磨しながら、ひとつの車のデザインをする、という感じでした。とてもタフな環境でしたが、自分も強くなって帰ってきました。


また日本。苦しい時代

強くなって帰ってきたはずなのですが、苦しい時期がいきなり来ました。大変ながらもそれまで順風満帆だったキャリアでしたが、就職してからアメリカ時代まで常に頑張りすぎたのか、何の前触れもなく心がボキッと折れてしまいました。日本の会社に戻り、普通に通勤していたら、大阪梅田の人混みでパニック障害を引き起こし、心療内科へ。「ちょっと休める?」と言われ、結局その後半年間会社を休むことになりました。


転職。リストラ。転職。

半年経って元気にはなったのですが、悩んだ結果、せっかく就職氷河期に新卒で入れた会社を辞めることに。環境を変えたかったのもあります。運よく半年後再度別の会社で働き始めました。外資系の自動車部品メーカーで、アメリカに本社が、日本には横浜に拠点のある会社でした。外資系で給料はとても良かったのですが、外資系あるあるで怖いところ…そう、突然リストラ話が!2年も経たずに辞めないといけなくなりました。でもこの会社では、アメリカ流の働き方をさらに深く学ばせてもらい、またたくさんアメリカに出張に行って大きなプロジェクトにも携わることができたので感謝しています。その後も日本の有名な会社のインハウスデザイナーになって、そこでもとてもいい経験をさせてもらいましたが (よそで働かせていただいた経験については私は本当に恵まれている)、心のどこかで、自分自身の意思とは関係ないことで世の中に振り回されながら仕事をしている…という感覚が常にありました。もちろん、そのまま続けてインハウスデザイナーとして一生を終えてもきっと楽しかったと思います。でも、悩みに悩んで、サラリーマン時代最後にいた東京を離れ、京都に帰ることに…


京都に帰る

京都に帰った理由は、親戚の家が染物屋を経営していて、そこの商品開発を手伝いたいと思ったからです。その染物屋は100年以上の歴史のある老舗ですが、昔ながらの職人が染めた商品を求めるお客様が少なくなっていることもあり、新たな挑戦をしたいと考えているところでした。ちょうど、その会社の経営が世代交代し、社長が私のおじさんから私のいとこ(私より年下)になったことで、一緒に何かチャレンジしやすい環境になったタイミングでした。

私は、その染物屋をはじめ、京都の伝統産業・伝統工芸に従事する会社や個人の方々をデザイン面でサポートさせていただきたいと思い、そのための会社を設立することにしました。

もともと、あんなに出たかった地元・京都ですが、大阪、東京、横浜、アメリカのカリフォルニア、ミシガン…サラリーマン時代たくさんの場所を点々とした結果、やっぱり自分が一番リラックスして仕事ができるのがここだ。そう思って京都に戻ってきました。


TIME and DESIGN

会社名に込めた思い。それは、「時間のかかるものづくりをデザインでサポートする」ということです。伝統的なものづくりには手作りならではの良さがありますが、どうしても手間と時間がかかり、値段も高くなります。それをわからない消費者には「高いね」で片づけられてしまいます。昔はいいものは何も説明がなくても価値をわかって買ってくれる人がいましたが、今は違います。動画やチラシ、パンフレットなどあらゆるデザインを通して、価値を伝えるお手伝いをしたいと思っています。また、商品のデザイン自体も、現代の感覚に合うものが求められています。商品開発も、職人さんの思いに寄り添いながらお手伝いしていきたいと思っています。